劇評
2005年劇場版『砂城のビショップ』
Jules†ジュール「砂城のビショップ」 西村博子 2005.02.15 Tuesday |
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憂いを含んで、きりっとしたルックスも素敵だが、少年サキヤ(伊東香穂里)のほっそりとした両肩、その背中がとりわけ魅力的だった。黒十字のリボンでうしろを絞った白いワイシャツ、細身の黒いズボンもよく似合う。 最近、男優の扮する女性で美しいといえるのが滅多にないのは、たぶん、あれもこれも同じような仕草、同じようなメーキャップ。シホンシュギシャカイにおける女性の商品価値をその美と思いこんでいるせいだろう。それに比べると女優の少年のほうは、こうすれば美少年というジョーシキなんてないから、そのひととして美しいかどうかだけが問われる。もし魅力的ならそのひとにしかない魅力、ということになる。 そういえば昔と、舞台の伊東香穂里を見ながら思い出していた。女性の鎖骨が美しいと言った男性がいた。かくいう私も男性の手の甲の美しさ、たかたか指から薬指へと這っていく骨にそっと見惚れていた時期があった。そして思った。サキヤはきっと肩甲骨が美しい少年にちがいないと。 ワイシャツを着ているからサキヤの肩甲骨が実際に見えるわけではないけれど、少年アロウ(古瀬木日華)が何度も何度も今にも触りそう、抱きしめそうにして愛を告げるシーンを見ながらそう確信した。そのほとんどがサキヤの背後、背中にすれすれの距離からの告白だったからだ。サキヤはそのたびに飛びのき、触るなと厳しく拒む。そう、これは肩甲骨に翼の生えた天使のように、空を飛びたいと願う少年たちの物語であった。 そこはどこか、夢にでも出てきそうな白い一室。7人の少年たちが住む寄宿舎だという。みんなの願いは、クリスマスまでに自分たちの作る飛行機で空高く飛ぶこと、らしい。が、やがて一人また一人と帰宅していく。そしてとうとう二人きりになったとき、サキヤはついにアロウを受け入れる。じっと寄り添う二人。が、つづいてエンジンの響きと大きな爆発音。アロウが死んだと告げられる。二人で飛ぶはずがなぜアロウひとり先に飛びたったかは分からない。残されたサキヤは、右手の砂時計を頭上高く掲げながら、砂が尽きたらまた引っくり返せばいい、そうすれば(アロウは? あるいは二人は?)永遠に飛びつづけることができると言い、ゆっくりとその砂時計を傾けて終わる……。 このシーンの前に、ビショップはほんとは道化なんだといったセリフがあったから、この「砂城のビショップ」とはどうやら「砂上の道化」ということらしい。おそらく、天使のように空を自由に飛ぶなんて現代では滑稽なこと、しかしそれがどんなに不可能であろうと、砂時計を引っくり返し引っくり返し飛びつづけていく――といったJules†ジュールの願い、あるいは祈り、であろう。 たとえば、言葉は口に出すとあとから想いがついてくるといった、ところどころ、ハッとするような新鮮な台詞、美しい言葉がいくつもあって、作・演出桜木バビの豊かな才能を思わせるが、それらがとくに劇のテーマやプロットと噛み合うわけではないのがもったいない。さきのビショップという言葉や砂も、ただ台詞で言ったり突然出してくるのではなく、もう少し伏線張っとけなかったかと惜しまれる。衣装や立ち居ふるまいに美的配慮のまだまだ行き届いていない少年たちがいたことも事実だ。しかし、遠くを望む窓以外白と黒で統一しようとした装置もそうだったが、自分たちの少女マンガふう、唯美の世界を構築しようとするその志は明確に感じとれた。Jules†ジュールの旗揚げ、幸先がいい。 女性たちは今、これが美だと男性たちによって作られ与えられてきたのではない、もう一つの美を創りだそうとしている……。 |